語感による科学的名づけ

”ソシュールと言語学”著者町田健先生への手紙

   ”ソシュールと言語学”著者町田健先生への手紙  

町田健先生

突然お手紙を差し上げ申し訳ありません。
[ソシュールと言語学](講談社現代新書)を読ませていただきました。 大変やさしく、丁寧に書かれていて、一気に読むことが出来ました。有難うございました。

ただ、どうしても納得できない部分がありましたので、反論の形で質問させていただきます。

私は言語学を最近かじりはじめたばかりの全くの素人です。ただ、学生時代、数理経済学で論理的考え方はしっかり鍛えられました。
最近、商品ブランド(例えば、新しい車の名前とか化粧品の名前、レクサス、ベンツ など)の語感を分析するビジネスに関わることになり、ことばの音の響き、語感の勉強をはじめました。学問的裏づけをと思い言語学の入門書も何冊か読みましたが、いずれにも出てくるのが音と意味との恣意性です。ビジネスの現場の実感とも合わないので、何人かの若い女性に聞いてみたところ、いずれもそんな馬鹿なという反応で、挙句は私の本の読み方が悪いと理解力不足にされてしまう始末です。そこで、最初に恣意性を言い出したというソシュールをと思い、先生のこのご本を読ませていただきました。以下納得できない点を書かせていただきます。

先生は、P24 に[これほど性質の異なる二つの要素を、同じ言語を使う人々がどうして正しく結びつけることができるのかは、考えてみれば不思議なことです。]とおっしゃっており、また、P157 に、バンベニストのことばとして[意味と音素列の関係は恣意的どころか逆に必然的ではないか]を好意的に紹介しておられます。にもかかわらず、音波は物理的実体で、概念は物理的実体ではないから[音声と概念とはまったく性質が違う。(P23)][両者の間には何の関係もありません。(P33)]P34,P48,P50、 などとおっしゃり、恣意性が疑いえない原理だとおっしゃっています。これではトルベッコイのいう[哲学の遊び]になってしまってはいませんか。先生も不思議に思い、我々庶民の感覚からすれば馬鹿馬鹿しいことを公理にしてしまっているのではありませんか。

先生が[性質が違う]という性質の定義が狭すぎるのではありませんか。例えば、音波は物理的実体で、概念は物理的実体ではないとおっしゃいますが、ことばの現象は人間の脳の中の出来事だということを見落としておられるのではありませんか。ことばの音は耳の中の鼓膜が波動を捉え、以後は神経パルスとして脳内で処理されるのですが、概念も脳内の神経ネットワークの活性パターンですから、現象的には同じものです。

性質の定義を緩め共通の因子を探せば、それはあります。脳内現象の認識的表現、すなわち、イメージです。一つ一つの音素はいろいろのイメージをそれぞれ持っています。一つの音素は、たくさんのイメージの一つのカタマリを持っています。私はこれをクオリア的なものとして捉えています。
ことば、すなわち、音素列は、これらのクオリアの時系列的連なりで、これも一つのクオリアです。意味は当然イメージに裏打ちされています。(ことばのニュアンスはここから出てくるのでしょう。)意味とは、イメージ群の一片の切り取り的なものではないでしょうか。

イメージを音と意味の間に媒介因子としてもってくれば、音と意味を結びつけることが出来ます。いや、むしろ、本来的に結びついているのではないでしょうか。
この考え方は、いわゆる、音義説でも、音象徴論でもありません。音素を意味として考えるのではなく、イメージのカタマリ、クオリアとして捉えるのです。
(音象徴群説、あるいは、音クオリア論でしょうか。)

音がイメージを持っていることを、客観的事実としてお認めいただけるでしょうか。
K音 に、固い感じ、乾いた感じなどがあるというと、すぐ、それは意味ではないかと反応される方がいますが、これは語呂合わせではなく、このようなイメージがあるのです。
世界的に有名な米国の神経学者 ラマチャンドランの‘ブーバ、キキ’の実験はご存知でしょうが、念のためご説明しますと、丸っぽい線描と角ばりとがった線描を見せ、[booba]と[kiki]という音声を聞かせて、どちらがどちらの名前かを当てさせるものですが、正解率は大体95%から98%だそうです。大方の学者がこれを共感覚の実験として扱っているようですが、これは共感覚ではありません。一種の刷り込みに近い記憶です。自転車の運転に似た自動的に再現される無意識層の潜在記憶です。(正確には、発音方法が自転車の操縦で、イメージはそれに付随する体感印象記憶です。)ラマチャンドランの実験は日本人に対するものではありません。いろいろな言語を話す民族に対して行われています。したがって、[キキ]に鋭さを感じるのは、意味ではなく、音のイメージです。しかも、話す言語に関係なく、ほぼ、人類共通と思われます。
 音がイメージを持っていることは、後述のソクラテスの他にも色々な方がそれらしきことを言っています。日本人では、賀茂真淵、本居宣長、鈴木朖[雅語音声考]、幸田露伴[音幻論]などです。

それでは、なぜ[キキ]に鋭さ、固さを感じるのか、それを、我々は、[キキ]という音の発音の際の体感と見定めました。特に口腔内の体感です。(これを仮説として日本語オノマトペで検証しました。)
/K/ という音素を発音するときには、のどの奥をいったんきつく締め、そこに息を強く吹きつけ破裂させます。そのため口腔の中を息が速く通り抜け、例えば、最初ののどの奥をきつく締める固い感じがし、速い息が口腔内の表面の水気を奪い、乾いた・冷たい感じがします。/I/ についても、口腔を狭くして強く息を共鳴させますので、母音の中では最も尖った感じがします。
これらのことにはソクラテスも気づいていて、[プラトン全集2、クラテュロス]の中で、[ R は舌が静止すること最も少なく、震動することの最も多いので、あらゆる動きを表わす]とか[ DとT は舌を圧縮し歯の裏側へ押し付けて発声するので、束縛と静止のイメージがある]などと言っています。ただ、ソクラテスのこの考えがその後深まらなかったのは、音と意味を直接一対一で結び付けようとしたからだと思います。(音義説に陥ってしまったのでしょう。)(なお、/R/ には動きよりも、賑やかさが強くあり、そこから華やかさ、バラバラ感なども出てきます。固さも少しあります。一つではないのです。)
音はイメージのカタマリを持っていて、意味はその一部だけを使うのだと考えれば、ことばが変化する理由も理解できます。

それでは、どのようなイメージを持っているのか。いろいろのイメージを持っています。固いとか、重いとか、明るいとか、・・・。これは現象の切り取りの問題です。発声という口腔内外の物理現象があって、それに伴う、主観的並びに客観的イメージをどのようにこと分けするかは技術的な問題です。物理的な、固さ、重さ、明るさというような切り口、前向き、内向き、こもる というような主観的な切り口、これらの一次切り口の集合としての、さわやかさ、重厚感 などという印象切り口などさまざまにあります。切り口を物理的なものに絞って10にするか20にするか、なども技術的問題です。この技術によって、ことばの音の持つイメージの一部を切り出すことが出来ます。
/K/ には固さ、乾いた感じ の他にも、軽さ、薄さ、鋭さ などもあります。ここから、(固い)(かわいた)(かるい)(きれ)などのことばが生き残ってきたのでしょう。語呂合わせのようにみえますが、これは、やまとことばにイメージに忠実なものが多く残っているからです。重要なのは、逆はないということです。すなわち、/K/ で柔らかさや、湿り気を表わすことは出来ないのです。もし、そのようなことばが他の原因で生まれても時代を越えては生き残れません。

ことばの音は自然音ではありません。人間が作り出したものです。 ア音 がどうして /ア/ と認識されるのか。これは、先生もおっしゃっている通り、音の高さではありません。/ア/ と /オ/ はどこが違うのか。それは発音の仕方が違うのです。口腔の形が違うのです。ただそれだけです。
しかし、これが本質です。

私たちは、口の形をどうするか、舌の形をどうするかなど、口腔の空洞の形を変えることによって、共鳴の音色を変え、母音を発音しわけています。しかし、人間はこの発音の仕方を生まれつき身につけているわけではありません。
赤ちゃんは、お母さん、お父さんの声を聞き分けられるようになり、人のことば、一つ一つのことば、拍あるいはシラブル、音素 と聞き分けられるようになり、 /ア/ と /オ/ を聞き分けられるようになるのです。
そして、次に試行錯誤の末、/ア/ を発音でき、/オ/ を発音できるようになるのです。/ア/ の発音一つとて、赤ちゃんにとっては大変な作業で、脳からは、舌を動かす筋肉、口の中を動かす筋肉、唇を動かす筋肉などに対し、細かな指示が出ています。それに付随してそれぞれの感覚も生じ、口腔を動かす運動の記憶とセットになって記憶されるのです。これがイメージのもとです。
ですから、ことばの音にとってイメージは本質的なものなのです。

一方、イメージと意味との関係はミックスジュースのようなものです。イメージがいろいろなエッセンスを溶かし込んだジュースで、その中の主なエッセンスを取り出したのが意味です。そして、その他のエッセンスがニュアンスを生み出すのです。 /K/ のエッセンスには、固さ、乾いた感じ、軽い感じなどがあります。それで、/K/ を使って、[ Katai、Kawaita、Karui ]などのことばが出来たのです。勿論、音と意味の関係を、イメージを媒介として考えるときは、そのことばの語根を中心に考える必要があります。語尾変化は、その他の要因を含んだ約束事です。ただ、これも恣意的ではありません。

以上、長々と書きました。まとめますと、

音と意味の間に媒介因子としてイメージを入れると、音と意味が繋がる。
音にとってイメージは本質的なものである。
音のイメージは、多様な切り口を持つ一種のクオリアである。
意味は、これらのクオリアの連なりの中の一部のイメージを使って作られている。
意味は、このクオリアの範囲内で変化もし分化もしていく。
音の持つイメージは、その音を発するときの体感、特に口腔内体感により生じ、無意識化している。

以上は全くの素人考えです。何か大きな勘違い、思考上の欠落などがあるのかもしれません。ただ、自分としては真剣に考えました。是非ご指導をいただければと思います。
もし、先生がお忙しければ、学生の方にでも検討させてください。若い方との議論は大歓迎です。よろしくお願いいたします。
増田嗣郎
平成20年6月27日
masuda@kansei-research.com
msiro@kjps.net

ご参考 [脳の中の幽霊、ふたたび]V・S・ラマチャンドラン 角川書店 P110
    念のため、ソクラテスの発言を抜粋したものを添付しました。

 

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