語感による科学的名づけ

”対論 言語学が輝いていた時代”著者への手紙

 

 ”対論 言語学が輝いていた時代”著者への手紙  

鈴木孝夫先生

「対論 言語学が輝いていた時代」を大変楽しく読ませていただきました。異種格闘技、大変面白いでした。(ちょっと、馴れ合い気味でしたが)
特に、鈴木先生の脱線気味の自由なご発言が面白いでした。
「ちがうものを同じというのは、すごい差別であって、ちがうものをちがうと認めることが平等なんだ。」とのご発言、全くその通りで、大賛成です。

私は元銀行員で定年退職後仲間を手伝ってベンチャーを立ち上げました。たまたま、そのビジネスが自動車の名前などのブランド名の語感を分析するものでしたので、急遽ことばの音の勉強をしました。大学では数理経済学の専攻でしたので、言語学は全くの門外漢です。ソシュール、チョムスキーなど名前は聞いたことがありますが読んだことはありません。
ただ、今回ご本を読ませていただいて、やや違和感をもった点がありましたのでお手紙しました。それこそインターディプリナリーというよりは、リンク外から手を出すようなもので、稚児のたわ言かもしれませんが、70歳をこす身の老いのチャレンジとお許しください。

P71「人間言語の大事な特性として、対象世界の持っている相互の関係を記号の相互関係に反映しないでいい」とおっしゃっていますが、このことと相互関係を反映しているものまで無視していいということにはならないと思います。欧米の言語ではその傾向が強いのでしょうが、日本語には相互関係の反映が、まだ色濃く残っています。
P72に「だい」「ちゅう」「しょう」を例に構造的反映が断ち切れているとおっしゃっていますが、断ち切れていません。大きな声でいうとか、力をこめていうとかとは関係なく、それぞれのことばの語感(そのことばを発した人、そのことばを聞いた人、それぞれが感じるイメージのカタマリ)、そこに反映されています。「だい」「ちゅう」「しょう」ということば、それぞれの持つ語感(イメージのカタマリ)を、大きいか小さいかというイメージの切り口で切ると、「だい」ということばのイメージは「ちゅう」「しょう」ということばのイメージより大きいし、「しょう」ということばのイメージは「だい」「ちゅう」ということばのイメージより小さい。
これは、「おーきい」「ちーさい」でも、「おーきい」の語感は「ちーさい」の語感よりも大きいイメージを多く持っています。この相互関係の反映は、「かたい」「やわらか」とか「カラカラ」「ベトベト」にもあり、硬度、粘度などで切ると明確です。

語感というものは感覚あるいは感性に属するものですが、「言語は論理でない」とさかんにおっしゃっているのは、このことでしょうか。「言語の生体解剖」をやりたいともおっしゃっていますが、ぜひ、語感というものを忘れないで欲しいと思います。従来の欧米由来の言語学は骨組(論理)に走る余り「やわはだの熱き血潮」を忘れてしまっているようです。
語感が感性的なものゆえ論理になじまないというのは間違いだと思います。この世のもので論理からはずれたものなんてありえないと思います。ただ、現在の科学的知見からは説明しきれないので逃げているのではないでしょうか。情緒にしても感情にしても、すべて人間の生体反応、脳の働きの結果にしかすぎません。脳がどのように働いているのか、かなり分かってきています。すべて論理にもとづく働きです。ただ、それが非常に複雑で、怪奇に思われていただけです。今後も脳の機序はいろいろ分かってくることでしょう。分からないからといって、例えば、そこに神を持ってくるのは、科学者としては卑怯だと思います。(勿論、先生のことではありません)

P232「言語学は科学でなければならないという人がいるけれども、とんでもない」とのご発言がありますが、これには反対です。「最も人文的な人間臭い学問」だからといって論理を無視しては学問ではなくなるのではないでしょうか。「他人の解釈でなく」「おれは世界をこう見る」ことが大切とおっしゃっていますが、これには大賛成です。ただ、そういうには、きっちりした論理的思考の裏づけが必要でしょう。それなくしていえば、ご宣託、悪くすれば、占いになってしまいます。

チョムスキーの本も読まずにいうのは乱暴かもしれませんが、チョムスキーの生成文法というのは鈴木先生のおっしゃる「生まれつき脳の中にプログラムされている行動の原理」の一種で、論理だと思います。ただ、脳の中にあるのは、チョムスキーのいっている単なる文法というよりは、もっと本質的なもので、キース・デブリンのいう「数学する遺伝子」的なものだと思います。進化の結果人類が得た大脳新皮質の神経細胞が、固体受精後、自己組織化されていく、その過程で自動的かつ必然的に組み込まれる論理思考のシステムだと思います。

P213「日本発の人間性に関する突出した学問成果がない」 「言語学は経験科学」P194「私にはこの感性が日本人であるがゆえにもっとも重要なのだけれども・・」とおっしゃっています。語感は感性の一部で、また経験です。欧米語は人工的に変化してしまっていますが、日本語には相互関係の反映が濃厚に残っています。日本発の学問として語感をベースとした新しい言語学の道をぜひ拓いて欲しいと思います。

私は、日本語は世界でも特殊だと思っています。特に、ことばの音の認識過程で、脳内機序として、拍で処理するかシラブルで処理するかは大きな違いです。c と v のシステマティックな組合せとして処理するか、c と v のぐちゃぐちゃな一塊として処理するか、脳の働きとしては大変な違いです。(たぶん、このため欧米語は語感から離れていったのでしょう。語感は音素から発生します。音素のカタマリとなるといろいろの語感が重なり合ってあいまいになるのです。)
日本語が特殊だというと、大騒ぎをしてクレームをつける人がいますが、先生流にいえば、特殊なものを特殊でないというのは不公平ですよね。むしろこれは、学問的には不誠実だと思います。

鈴木先生のお書きになったたくさんのご著書も読まず、言語学も学としては勉強せず、門外漢が一知半解、生意気なことを申し上げましたが、外から鳥瞰的にリングを眺めさせていただき、先生の胸をお借りする積りで書きました。ご無礼お許しください。

お礼旁々                  平成20年2月12日
                                      増田嗣郎
P.S. 個人のホーム・ページを立ち上げました。是非ご覧ください。
          www.gokanbunseki.com

 

鈴木孝夫先生

丁寧なお葉書、有難う御座いました。
また、いろいろご説明をいただき、有難う御座いました。
ただ、私の言葉足らずで十分私の考えが伝わっていないようですので、今一度ご説明させてください。

私は先生のおっしゃるもう一つの他に、感性的な領域もある、といいたいのです。ただ、ここで、ご留意いただきたいのは、感情的なものと感性的なものは違うということです。
濁音が好きか嫌いかは感情の問題です。これは文化だけではなく、男女、年齢などによっても違いがあります。日本人でも小さな男の子は濁音が大好きです。それは、濁音、特にガギグゲゴに大きさや、力強さを感じるからです。この大きさや、力強さなどのイメージを感じるのが感性で、これは、日本人の大人も、外国人も同じように感じます。
ただ、それを好むかどうかが異なるだけです。ここでいう感性的なものは、自らの発声体感からきていますので、人類共通、普遍的です。好き嫌いの感情的なものは、文化だけでなく、男女、年齢によっても異なります。
ソクラテスも、「プラトン全集供.ラテュロス」(岩波書店)の中で、ことばの音の発声体感に、かなり詳しく触れています。

先生がおっしゃる「記境靴望中大を感じる」のは、意味の世界ではないでしょうか。あるいは、文字の構成からでしょうか。
私が申し上げたのは、「だい」「しょう」の音そのものの中に大きい小さいのイメージがあるということなのです。例えば、日本語を全く知らない人たちに、大きいものと小さいものを見せて、「だい」と「しょう」の発音を聞かせて、どちらがどちらの名前か当てさせれば、多分80%以上の割合で大きい方を「だい」と答えるでしょう。
脳科学者が、「ブーバ」と「キキ」という音を聞かせて、丸っぽい図形とぎざぎざの図形を見せて、どちらがどちらの名前か当てる実験を、世界のいろいろの所で行っています。
Dr.ラマ・チャンドランは、いろいろの民族で94〜95%の正解率だといっていますが、2・3年前のNHKの街頭アンケートでは、確か80%位の正解率だったと思います。
私は子供の頃、当時全盛の三輪自動車を「バタバタ」と呼んでいました。決していやなイメージではありませんでした。

またまた、生意気なことを書いてしまいました。お気に障られれば、看過ください。
ただ、私は日本発の日本ゆえの言語学が世界に輝いて欲しいと思っています。
                    平成20年2月22日    
訂正 ラマ・チャンドランの研究は、英語圏とタミール語族とで、95〜98
%の正解率と。
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