語感による科学的名づけ

気質と性格

   性格ミエル研究所 性格分析  

この年の暮れ、何気なくテレビを見ていたら、「性格ミエル研究所」なる番組に出くわした。質問に答えることによって、「あなたの本性が分かる」、「あなたの近未来が予測できる」のだという。
ディグラム診断といい、20問の質問に答えると5つの性格構成要素が分かると言う。
5つの要素は、厳しさ、優しさ、論理性、奔放性、協調性 である。
この5つの構成要素の大きさを波型グラフにして、そのグラフのパターンを見て、その人の性格を診断するのだという。
どこかで見たような気がしたので、サイトで調べてみた。すると、グラフの項目が   CP,NP,A,FC,AC になっていた。これはまさに、TAのエゴグラムと同じではないか。
TA(Transactional Analysis)は交流分析といって、エリック・バーンが開発した精神分析手法で、人の他人に対する時に取りやすい心的態度をグラフ化し、パターンとして分析するものである。心のスタンスとして取り得る態度を、厳格な父親、やさしい母親、クールな大人、天真爛漫な子ども、素直ないい子 の5つに分け、取りがちな比率をグラフ化している。したがって、TAのエゴグラムは、どちらかというと、態度分析であるが、ディグラム診断はそれを性格とみなして分析しているようである。質問項目は勿論独自に開発したものだろうが、基本的な考え方はTAの借用だろう。
実は私も、私の別のサイト、‘わんわん分析’の性格分析にこのTAの考え方を借用している。‘わんわん分析’はお遊びではあるが、この性格分析部分は真面目なものである。ただ、性格分析といっても、今のあなたの性格を分析しようというものではなく、あなたの名前の持つイメージ通りにあなたが育ったらこのような性格になるであろうという理論値である。
人はそれぞれ異なった体質、そして気質を持って生まれる。その気質に生まれ育った環境が加わって性格が形作られる。そして、自分の外の人との接触を経て態度・役割というようなものが選択され、気質、性格のベース上に覆いかぶさっていく。外からあなたを見て分かるのはこの態度・役割の部分である。同じ気質に生まれても、環境によって形作られる性格は異なる。同じ環境に育っても、気質によって性格は変わってくる。ただ、環境は必ず性格形成に影響を与える。そして、その子に与えられる名前も環境の大きな一つである。やさしいイメージの音の連なりを自分の名前として呼び続けられれば、その子はやさしい子になりやすいだろう。全てを吸収しようとしている幼子は、言葉の音の響きのイメージと共に言葉の意味を覚え、自分の名前をその音のイメージと共に自らのものとして覚えていくのである。知らず知らずのうちに自分の名前の音の響きの持つイメージが自分として脳に焼き付けられるのである。
そのイメージ通りの性格になったらどうなるかを分析したのが、この私の性格分析なのである。その分析結果をどう解釈するかは、TAのエゴグラム・パターンで見ていただいてもいいし、ディグラムで解釈してみても面白いかもしれない。
あなたの名前を‘わんわん分析’で一度分析してみて下さい。なお、相性については、一応学問的裏付けはあるものの、やや、あやしいので、お遊びです。

なお、周りの人に対する態度を、男としてか女としてか、大人としてか子どもとしてか、と分けて考える考え方は面白い。さらに、それに親としてかその子としてか、を加味したのが、TAの5つの分類法である。私はこの考え方を性格の分類その他に利用させていただいている。
  (平成27年1月5日)

   名前とその子の性格  

  名前と語感  

人の名前の音の人に与える効果には二つの異なる側面がある。

  相手に与える影響  

まず一つ目は、対面する相手に与える効果である。(もちろん、実際に会わなくとも、名前を聞き、あるいは、名前を読んだ相手に対する影響である。)
すなわち、相手がその名前に対しどのような印象を持つかである。
もちろん、名前の字の持つ意味だとか字形による印象もある。また、その人の個人的人間関係にも影響される。例えば、同じ名の人が好きであったとか、あるいは、同じ名の人に意地悪をされたとか、個人的な思いも先入観としてはある。しかし、名前の音のイメージの相手の潜在意識への働きかけも無視できない。

さわやかな名前はあくまでさわやかな印象を与え、固い名前は固い印象を与える。もっとも、相手がその場でさわやかさを良しとするか、固さをより良いとするかは別問題である。そして、これももちろん相手の主として無意識の領域での話ではある。
それ故、初対面の相手に対し、苗字のみを名乗るか、名前のみを名乗るか、フルネームで名乗るかの効果の違いは大きい。
受け取る相手の個別の事情による先入観はさまざまではあるが、音のみから受ける印象は、日本人であれば誰でもほとんど違わない。
これは、そもそも語感が発音体感に根ざすものであるからである。
一つの音の発声は、誰しもが同じように発声しないと同じ音にはならない。同じような口の使い方をすれば、それに伴う口の内外の体感は同じようになる。
口をいっぱい開けて発声して、小ささを感じる人はいない。温かい息をゆっくり出して、口の中で転がして、冷たさを感じる人はいない。ただ、大きさなり、冷たさなりを意識としていちいち感じているとは限らない。意識として感じていなくとも、無意識の領域では感じているのである。(神経インパルス・パターンとしては生じているということ。)

  本人に与える影響  

名前の音の与える影響の今一つの側面は、本人に与える効果である。
その名前を自分のこととして呼ばれ続ければ、その音のイメージに影響されないわけがない。
生まれてすぐの赤ちゃんにも五感はある。ぼんやりではあるがものは見えている。お母さんの声も聞こえる。つねれば痛がりもする。
ただ、この時期の赤ちゃんの五感はまだ明確には分かれていないといわれている。光にも音にも脳の中の感覚野になるべき領域すべてが反応するのである。やがて脳の中の神経細胞の軸索の髄鞘化が進み五感も分離・独立していく。生まれたばかりの赤ちゃんは両手がいっしょに動くが、やがて別々に動かせるようになるのと同じである。
人間の赤ちゃんの大きな特徴の一つに人まねがある。生まれて数日の赤ちゃんもお母さんが舌を出してみせると舌を出すという。これは反射に近く人間の本能ともいえる。
赤ちゃんは最初は近くのものしか見えないようであるが、だんだん遠くのものにもピントが合わせられるようになる。そして、ものの区別もつくようになる。ただ、これには訓練(経験)が必要なようである。
視覚のシステムが正常でも、生まれてすぐの見る経験がないと、一生ものを見ることが出来ないのだという。視覚システムというハードがあっても、ものを見るというソフトを脳内に構築しないとものを見ることは出来ないのである。このソフトの構築には臨界期があって生後すぐ行われねばならないようである。ちなみに、色と動きは生まれつき分かるようである。ものの輪郭を掴むには訓練がいるようである。質感、素材感は経験の積み重ねがあってはじめて分かるようになるのである。

聴覚についても、学習が必要である。生まれる以前から赤ちゃんは人の声を聞いている。生まれてすぐの赤ちゃんも人の声とその他のもの音との区別はつくようである。お母さんの声も分かるようである。もちろん、意味は分からない。お母さんの言ってる「おはよう!」とお父さんの言ってる「おはよう!」が同じものであるということは分からない。
一生懸命に聞いているうちに人の声の音の一カタマリが分かるようになるのだろう。そして自分もまねて声を出そうとする。最初はおっぱいを吸う口の形のまま出す破裂系の音、マとかパとかバ的な音が多いようだ。

  音韻秩序  

赤ちゃんにとって声らしき音が出せることは大変な快感であるに違いない。この頃には感覚もかなり分岐・発達してきており、マならマを発声するときの唇の感じ、舌の感じなどの口腔体感がマの発声の仕方と共に脳の中に記録される。
マを発声するには息をどう出す、口の形をどうする、舌をどう使うなどのいろいろな操作が必要で、これらは脳からの七種類の筋肉群への指令によってはじめて可能となる。
このマならマを発声するときの動作手順は小脳を中心に記録されるようである。そして、この発声手順が確立すれば、その後は意識なしに自動的に発声できるようになる。
ただこの時のマがお母さんのマともお父さんのマとも同じものだと脳の中で整理されなければ言葉を理解することは出来ない。お母さんの発する聞こえとしてのマもお父さんのマも自分の発するマも同じマとして脳に記録されるとき、同時にセットとなって、マを発声するときの発声体感も脳内に記録される。(ただ、動作手順の記憶と体感イメージの記憶は必ずしも同じ場所に収納される訳ではない。)
マの次にはパ、そしてその次にバと、発声できる音の数が増えていき、最終的には日本人の場合、50音+それらの濁音、長音、拗音、そして、撥音、促音が発音し分けられるようになる。ここで、日本人の場合、日本語ではR音とL音の違いは必要ではないので、R音とL音とは聞き分けられなくなる。こうして出来上がったのが脳内の拍秩序(そのベースに音韻秩序)である。すなわち、音韻秩序は各音韻の発声動作手順と発声体感が対になったものとして脳内に構築される。
この音韻秩序が出来上がると、お母さんのマを聞いたときも、お父さんのマを聞いたときも、脳内では同じマの神経インパルス・パターンとして、マの発声体感から生じたイメージの流れと共により高次の処理にまわされる。
これが語感の基である。
一つ一つの音の連なりとしてのコトバを発するとき、それぞれの音のもつ発声体感により生じたイメージが一つの流れとして感じられる(通常は意識に上らない)。イメージ(意識に上らなくとも意識下で)そのものがクオリア的であるから、それらのイメージの流れとしての一カタマリもクオリア的である。
こうして生じる語感はそのコトバを聞いたときも聞いた人の脳内に生じる(無意識であっても)。
一つのコトバを聞いたとき、その音の流れは聞いた人の脳内でその人の音に変換され、それらの音の流れとして処理されるのと同時に、それらの音のもつその人の発声体感も、イメージの流れとして、その人の脳内に生じるのである(明確に意識はされないとしても)。
まだこのような音韻秩序が完成するより前、そして五感が分離し感覚が細かくなる以前から赤ちゃんはその子の名前で呼ばれ続ける。もちろん、このとき赤ちゃんにはまだ語感は育っていない。
自分に向かって発せられる音のカタマリと自分とを一体として捉えるようになり、また自分でもその音のカタマリの音一つ一つを発声できるようになるにしたがって、自らの中にその音一つ一つの発声体感が生じ、コトバの音全体としてのイメージも生じてくる。
最初のうちは大雑把なものかもしれない。しかし、そのコトバのもつ語感として自分の中で育っていく。(これらはすべてはっきり意識されるわけではない。)
当然、自分の名前の語感も自分と一体のものとして自分の中で育っていく。自分の名前の音のもつイメージが自己イメージの一つとして自分の中に育っていくのである。
やさしい音の名前であれば、やさしい者としての自己イメージが育つし、しっかりした音の名前であれば、しっかりした者としてのイメージが自己の中に育つ。
しっかりしたイメージの名前を名づけられた赤ちゃんが、その名の語感から、「しっかりしている」と受け取るか「しっかりしろ」と受け取るかはその赤ちゃんの個性である。
その赤ちゃんが気質的にしっかり系であれば、その自分の名を自己肯定として受け取るであろうし、気質的にやさしい系であれば「しっかりしろ」との激励として受け取る。
あまりに異なれば自分の名を重荷と感じることもあるかもしれない。
いずれにしても名前のもつイメージがその子のその後の性格形成に大きく影響を与えるのである。

  以上のように、同じ音の名前でも必ずしも同じ性格になるわけではない。

  型枠と生地  

焼き菓子を作るとき、同じ型枠を使っても生地になる粉の種類によって、また、砂糖などの添加物の量などによって、焼き上がりの印象は大いに異なる。
型枠を名前の語感とすれば、生地にあたるものは、その子の生まれついての体質に基づく気質であろう。そして、添加物としてはその子の生まれ育つ環境がある。
長男として生まれるか、末っ子として生まれるか、下町に生まれるか、学者の家に生まれるかなど環境のその子の性格形成に与える影響も大きい。
しかし、生地がなんであれ、添加物がどうであれ、型枠を丸にするか、星型にするかによって出来上がりは歴然と異なる。もちろん、ふくらし粉が入っていれば星型の型枠を使っても出来上がりは丸に近くなる。しかし、星型の痕跡は残っている。
このように名前の音は必ずその子の性格形成に何がしかの影響を与える。
赤ちゃんに名前をつけるということは、焼き菓子の型枠を決めるということに相当する。親の期待するその子の人間としての姿を型枠に託すのである。
このとき型枠は出来れば生地にそぐうものであって欲しい。粗い生地で焼き菓子を作るときあまり精巧な型枠、例えば大好きな犬の形にしようとしても、焼き上がりは馬だか豚だか分からないようなものになってしまう恐れもある。粗い生地であれば、やはり大らかに丸だとか四角とかにするのが無難であろう。
生まれつき線の細い子、神経質な子に豪快さを期待させるような名前をつけると、その子にとってその名前が重荷になってしまうかもしれない。繊細な子にはせめてしっかりした人間になって欲しい程度の名前にすべきかもしれない。繊細な子に、まさにピッタリの繊細な名をつけると、繊細さに自己陶酔した余りにも繊細な人間になってしまうかもしれない。

  気質と体質  

それでは名前をつけるにあたり生地をどう判断するかということであるが、通常は両親の性格とかけ離れた気質の子は生まれない。普通は両親のどちらか、あるいはどちらかの祖父、祖母に似るものであるから、赤ちゃんをよく観察すれば大体の見当はつくものである。その上で、その子の気質を伸ばしたいのか、あるいは弱いところを補いたいのか、親の願いを名前に込めればいいのである。
人には生まれながらの体質というものがある。骨太に生まれれば一生骨格がしっかりしている。痩せ型の人はいくら食べても肥れない。これらの体質は遺伝的なものである。
お酒に強い弱いも、生まれついての体質である。
この生まれながらの体質に相当する性格的なものが気質である。生まれながらの性格というものがあるのである。神経質な子は一生神経質である。努力によって神経質を克服する人もいる。しかし、その人の本質は神経質である。外面的なことは努力によって糊塗することも出来るが、基本的な性格、気質は変えることが出来ない。生地を変えることは出来ないが添加物によって出来上がりの印象を変えることは出来る。

  気質は体質をベースにした遺伝的なものである。

  三つの体質  

体質は大きく三つに分けることが出来る。
フックラした内蔵型、ガッチリした筋骨型。スラットした神経型である。
これらは発生学的には、
 内胚葉型、中胚葉型、外胚葉型
に相当する。
母胎内で受精した卵子は細胞分裂をして三つの部分に分かれるが、これが、内胚葉、中胚葉、外胚葉である。その後、内胚葉は胃腸を中心とした内臓に、中胚葉は骨格・筋肉に、外胚葉は神経細胞に成長していく。
これら三つの胚葉から出発した各器官はバランスをとりながら成長していくが、人それぞれにバランスが異なり、内胚葉系が強い人、中胚葉系が強い人、外胚葉系が強い人が出てくる。この現れ方も一つの系が極端に強い人もいれば、三つがほぼ均等にバランスしている人もいる。人の体質とは、この三つの混じり具合だということも出来る。

  三つの気質  

そして気質もこの体質の交じり合いに応じて、人それぞれに異なってくる。
そして、体質的に大きくは三つの方向に分かれるように、気質的にも三つの方向に分かれる。すなわち、内胚葉気質、中胚葉気質、外胚葉気質である。もちろん、多くの人はこれら三つのどれかになるのではなく、これら三つの間のどこかに位置するのである。ある人は内胚葉型に近く、ある人は中胚葉型と外胚葉型が共に強いという様に、である。
それでは、これらの三つの気質とはどのようなものであろうか。
三つの気質は、基になっている体質から生じてくるものである。

ちなみに、この気質分類法は、クレッチマーに始まりハーバート大シェルドンの実証研究へと発展してきたが、人を外見で決め付ける考え方として概して批判的に見られてきた。
私も人を外見だけから判断するのはよいこととは思わないが、やはり人は、人の好き嫌いをはじめ人の判断を視覚情報に最も多く頼っているのが実際ではなかろうか。
そして、人をより理解するための視覚的尺度の一つとしてこの三気質の分類法が非常に有用だと思っている。
私は、
内臓中心の内胚葉型の気質をフックラ型(F型)、
筋骨中心の中胚葉型の気質をガッチリ型(G型)、
神経中心の外胚葉型の気質をスラット型(S型)と呼ぶことにしている。

F型の外観
 手の指も身体全体も丸みを帯びフックラしている。真ん中に肉が寄りやすい。
G型の外観
 身体全体に骨組みがしっかりして、手の指もガッチリしている。
S型の外観
 全てがホッソリしており、手の指も細くて長い。

F型の性格特性
 食べることとおしゃべりが大好き。皆と一緒が好き、人が好き、はしゃぐのが好き
 楽天的、世話焼き、社交的、八方美人、調子がいい、無責任
肉体的苦痛に弱い。怖がり痛がり、さみしがり
 享楽的、いい加減、ノンポリ、 
死を考えることも怖い
G型の性格特性
 運動など身体を動かすことが大好き、肉体的苦痛に強い。
 実利的、損得勘定、功利的
 整理整頓、綺麗好き、規律ある生活
 規則を作るのが好き、正義感が強い、責任感が強い
 頑固で独りよがり、マイペース、無神経、鈍感
 目立ちたがり、厚かましい、ええかっこしい
 死を恐れない
S型の性格特性
 孤独に癒される。一人しずかに本を読んだり音楽を聴いたりが好き。
 考えることが好き、理想主義
 人が苦手、人に疲れる、気を使いすぎ
 神経質、繊細、ひ弱、過緊張、過剰反応
 夢想的、逃避的
 死にもロマンを感じる

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