語感による科学的名づけ

原言語・仮説

イイとイヤ! その違い  

言葉の音は、意味を持っているのではなく、クオリア状態のイメージ、すなわち色々なイメージを持っているのである。正確には、その音を聞いた人に色々なイメージを感じさせる。言葉の意味との関係は、人々が色々なイメージの一部を選択的に利用して、意味と関係づけている。したがって、同じ音が反対の意味の言葉にも使われることもあり得るのである。「イイ」と「イヤ」は反対の局面で使われる言葉である。しかし、/イ/という音がどちらにも使われている。これは、/i/ に強い前向きの意思を感じさせるイメージがあるからである。/ヤ/は /i/ から /a/ への変化で、揺れ、不確かさを感じさせ、疑念に繋がる。「イヤ」の/イ/はこの疑念の/ヤ/を意思として強調しているのである。

   おはよう  

朝の挨拶「おはよう」は「朝、早いですね」という呼び掛けが形式化して朝の挨拶になったと思われるが、「おはよう」の‘お’は接頭辞、語感的に重さが感じられ存在感があるところから丁寧な表現としての接頭辞として使われるようになったのであろう。‘早い’は‘パヤイ’から出来た言葉。‘パ’には破裂して拡散する素早さが感じられる。語感から出来た言葉だろう(パッと行っちゃった。パッパッとやりなさい。)。英語の「Good morning!」はどうだろう。「良い朝でありますように!」という素直な挨拶である。ところで、‘good’という表現はどこから来たのだろう。‘good’と‘God’は音が似ている。‘ゴ’、あるいは‘ガ’という音には迫力が感じられる(‘ド’には重さも)。‘morning’も‘祈り’と関係があるのだろうか(どなたか調べてください)。‘morn’の意味は唸り声、まさにそのものである。なお、日本語の‘うなる’も擬音語である(広い意味での)。

   お遊び  

 私のこの様な説明はお遊びである。ちなみに、‘遊ぶ’も語感から来た言葉だろう。‘ASoBu’の‘ASo’は‘ASoKo’の‘ASo’である。‘Ko’は‘KoKo’から来た場所を示す表現。‘ここ’、‘そこ’、‘あそこ’の順に遠くなる。自分から離れる。‘あそこ’は最も遠い。‘ASoBu’の‘B’は破裂のイメージを持ち、/u/には内から外への動きが感じられる。‘ASoBu’は「遠くへ自由に飛び出す」イメージとなるのである。‘遊ぶ’とは本来‘怠惰’を意味するのではなく、‘自由な活動’を意味するのである。ここまで来ると、こじ付けの様に思われるかもしれない。日本語には駄洒落も多い。このことは、日本語には、語感繋がりの語感の生きた言葉が、今なお多く残っていることを示しているのである。
 残っていると言ったが、新しくも出来ている。「キンキンに冷えたビール」の「キンキン」も語感を生かして出来た新しい表現である。「モフモフ」もそうだろう。これらの表現はこれからも残るだろう。「まうい!」などはやがて消えるだろう。語感が合わないからである。(この辺りの細かな議論は別稿で論じているので、ご参照ください)
   平成30年3月3日

原言語・仮説  

 ことばがどのように生まれてきたか、色々の説がありますが、私は以下のように考えています。

○ 母音的なものがグルーミングの手段として生まれてきた。
最初は、あかちゃんの授乳時に自然発生的な息遣いから生じたMに始まる音、そして、それに合わせる母親のそれをまねた音、それが、ヒトをなだめたり、あまえたりに応用されことば的になっていった。これらの音の初めはM的音ではあったが、主体はアナログ音(のばせる、連続的に変化させることができる)、母音であったろう。
当初、母音はあいまいな、連続変化的なものであったろうが、自分の気持ちを込めることによって、あけっぴろげで、おおらかな’ア’とか、自分の意志を伝えたい、前向きの’イ’とか、重さがあり落着いた、やや内向きの’オ’という風に使い分けられるようになっていった。(授乳時仮説 については、語感入門( M・B・P 初語 ) をご覧ください。)

○ 子音的なものが、警告、脅しの手段として生まれてきた。
子音は口の中に、障害物(ストレス)をわざわざ作り、そこに息を強く吹きつけることによって生じさせる人工的な切れ切れのデジタル音。当然発声は意図的であり、テンションの高い状態、すなわち、異常時に発せられる音である。

○ 母音と子音、どちらが先に生まれたかは分からない。同時的に発生したかもしれない。授乳時の’マー’のように、子音を伴いながら母音が発達していったのかもしれない。

○ 現在、世界に6900余りの言語があるといわれているが、その中に、子音の重視されている言語と比較的母音の効いている言語とがある。
 子音の重視される言語は、インド欧羅巴語系の言語を中心に世界の言語の大半を占めているが、母音の重視される言語としては、日本語、ポリネシア語などがある。イタリア語、スペイン語などは、やや母音が効いており、開音節語とも呼ばれている。この対極にあるのは、アラビア語で、母音が三つしかなく(二重母音を含め五つ)、表記は一部を除き子音字のみを用いるほどである。

 子音は、砂漠などきびしい自然環境の中、自然、異民族との戦いの中で、生き残るために、より発達していったと思われる。現在の欧米文明を中心とする国際社会もこの流れの中にある。

 一方、恵まれた自然、しかも圧倒的な力のある自然の中に発達した日本文明は、自然と対峙するよりも、自然を慰撫する道を選択し、人間関係においても、和をもって貴しとする方向で発達してきたため、母音的なものがより多く残る結果となった。結果、日本語は、権利主張、弁論、演説にはむかない。和歌、演歌など叙情にむいている。

 また、海洋民族のあいだでは、敵に知られる心配もなく、大きな声の出せる母音がより残っていると思われる。四方海に囲まれた日本は、古来、海洋民族的要素を多分に残していると思われる。

   日本語 の作り方  

音素はそれぞれイメージを持っている。
音素と音素で拍を構成する。一つの子音と一つの母音がつながる。ここにイメージの流れが生まれる。
一つの子音の持つイメージのカタマリから、一つの母音の持つイメージのカタマリへの変化、これは、全体としてクオリアの流れである。(クオリアは止まるものではなく、流れるものである。この場合、変化しながら移り変わっていく。)
そして、このクオリアの流れが一つの物語となる。
クオリア自体、イメージのカタマリ(変化する流動的カタマリ)であるから、物語としての読み方は幾通りかある。その一部を使って、言語表現、すなわち、意味として使われる。
大和言葉(日本語オノマトペを含む)が多義的なのはこのためである。(ハラハラは、桜の花の散り様にも使われるが、幼子のチャレンジを見守る親心の状態にも使われる。)

子音のイメージは概して素材感として感じやすい。一方、母音のイメージは、話し手の気持ち、スタンスを表わしやすい。
そこで、拍は、〜的なものが〜的状態にあるという物語になる。
この拍が連なってことばとなると、物語の連なりの一つの物語となる。このイメージのカタマリの物語が集約されたものが、そのことばの意味として使われる。
そして、イメージのそれぞれは、そのことばのニュアンスとなる。このことばのニュアンスは通常人には言語化しにくい意識下のものである。この言語化が得意な人々が詩人である。
ボチャン・バチャン・ピチャン・ポチャン は何かが水に落ちたときの表現である。ボ・バ・ピ・ポ によって落ちた物のありよう、大きいか・小さいか・重いか・軽いか などを表わす。チャン は水の飛び散る様である。オノマトペは時系列的である。

   古代人になって ことば を作ってみよう。  (やや、乱暴で無責任!!)  

O は口をすぼめ、口の中を大きく丸くし、口腔の奥の下の方で調音するため、ものが大きい、丸い、重い などのイメージがある。そこで、重いイメージを使って、重い、置く、落ちる などが出来る。大きいから、大きい、他と複合して、おおらか、おだやか、遅い なども作れる。奥 などもそうだろう。

I は前向きの強い意志を示しうるから、イヤ・行く・イイ、少し複雑になって、イライラ・意欲・意思(古代中国人も語感に忠実だったということか)。確かな実在感から子音と結びつき、PI(日、火)、固体的な MI(実)、気体的な KI(気)、粘性のある液体 TI(乳、血)さらっとした液体 SI(水)。(下 は水の落ちる方向かも)

U の調音点は口の奥の上の方である。このイメージから、上、内、動く、浮く などが作れる。子音と結びつき、動きと内側へとが重なって、固いものを 食う(KU),液体を吸う(SU)が出来たのかもしれない。そして、口も(KU う UCHI)。

A は口を大きく開け、ノビノビと発声するから、開ける、明ける、明るい などから、朝、赤、そして、暖か、熱い もそうかもしれない。大きな広がりを感じるから、天、海、そしてそこから、雨、海女。

E は日本語の母音中一番最後に入ってきたもので、A と I との間というやや微妙なところにあり、E で始まる古いことばは少ない。語感的には、下あごを少し引き口元を平らにして発声するため、やや引き気味の、下に平らに広がるイメージがある。そこから、つながるもの、根、毛、手、芽、瀬 などに使われた。

   ことば が どのように 増えていったか。  

中西進先生によれば、死ぬ ということばは SI=水分 からきたことばだと。古代人にとって、死ぬ も しおれる も同じような概念で、生体から水気が抜けた状態を表わしていたと。しなえる も同じと。そうすると、同じように、しぼむ、しみる、シミ、しぼる、しめる、しなびる、なども出来る。沈む、シトシト、シンミリ、しっぽり、ジトジト、ジクジク などもそうかもしれない。
そもそも、静 も水の状態、あるいは、水を打った状態からきたことばかもしれない。(SI が付く=しずか)

私は、ここで、厳密な日本語の語源を探ろうとしているわけではありません。語感から、現在我々が使っている言葉が、日本語にどのように受け入れられていったかを明らかにしたかったのです。

   語 源 について  

ことばの語源に特に関心があるわけではない。ただ、ことばの音の語感から、どのようにそのことばが出来、ナゼそのようになったか納得できるかに関心がある。
今の私が納得できれば勿論、太古の人々が感じたであろうことが納得できれば、それでいいのである。
光 が ピカリ、 炎 が ポッのお だといわれれば納得する。
死ぬ が SI(水) が抜けること だと聞けば、なるほどと思う。
そうゆう意味で、林 の語源には今一つ納得できなかった。
はやし は古くは ぱやし、森 に比べ木が パラパラ なので ぱやし。ウーム? という感じであった。
森については、森そのものの全体が モクモク、モリモリ 木が生い茂り、盛り上がる感じで、全くそのものだと感じていた。
ところが、先日、松岡正剛先生の対談本を読んでいて、アッと思った。松岡先生が、奈良の二月堂のお水取りに関し、その時燃やす松明を 囃子 といい、そのために材木を切り出す場所も 囃子 といった、といっているのである。
松明なら、パやす は分かる。そして、その材料を切り出す人里近くの森を ぱやし といったというのなら納得できる。木も パラパラ だし。
このように書いてくると駄洒落を楽しんでいるように見えるかもしれない。現に、私の説明を駄洒落、語呂合わせだと怒る人もいる。しかし、日本語は、元来、語感から語呂が合っているのである。しかも、われわれ日本人の祖先は駄洒落好きであった。江戸文化はいわずもがな、万葉集にも駄洒落はたくさん出てくる。(馬声蜂音=イブ と読む、八十一=クク、鶴鴨=〜つるかも、・・)
日本語と駄洒落、語呂合わせの親和性が高いのは、日本語が拍で構成されていることと大いに関係があると思われが、語感の反映を色濃く残しているのも同じ理由からかもしれない。
拍、おそるべし。日本語の本質は 拍 にあった。

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