語感による科学的名づけ

語感上級

   語感上級  

   子音 の 種類  

子音は、その性格により、いろいろグループ分けすることができる。
M・P・B は一つのグループ。幼児が最初に出す音で、口腔の形が同じ。
N と M は鼻音、湿り気、粘り気が感じられ、共に撥音として使われる。
Y・W は母音の連なりが詰まったもので二重母音か。
H は唯一の声門音で半母音。口腔の形は M・P・B グループと同じ。
R は子音としては最も新しく入ってきた特殊な音で、大和言葉では、語頭には使われず、語尾変化として使われた。
最も子音らしい子音が K・S・T か。あれ、これ、それ、たれ、の距離感の違いに使われたのもそのためかも。

   A KO SO TO の距離感  

あれ、 これ、 それ、 とれ(どれ) 
あっち、こっち、そっち、どっち
あの、 この、 その、 どの
あちら、こちら、そちら、どちら

すべて、A,KO,SO,TO(DO)の違いだけである。
この違いは、体感としての距離感の違いである。
KO は距離ゼロ、手の届く所。
SO は見えてはいるが、手の届かない、指を刺すことはできる。
A はそれよりは遠く、視界外も含む。
これらの距離感の違いはどこから来るか。発音体感、すなわち、語感からである。
K・O とも調音点は口腔の奥で、体感としての自分との距離感はゼロである。
S・O は口腔内の前の方から奥への移動、遠くのものを引きよせる感じで、S の距離感が効いている。
A は一番オープンで拡散する感じ、三つの中では身体の中心から最も遠い体感。
TO は舌を硬口蓋にちょっと着けて発音するため、止まり、ためらう感じがあり、疑問に使われるようになったのであろうか。(TO の濁音 DO は TO よりもためらい感が強い)

   我、なれ、彼、誰 の距離感  

われ、なれ、かれ、たれ の語幹だけを考えると、WA,NA,KA,TA。そして、違いは、W,N,K,T である。
この距離感を考えてみよう。
W はもともと UA の縮まったもので、U・A はともに母音で、情緒的。そして、U は最も内的。内へ入る、内にこもる、内から抜けるイメージを持つ。(ちなみに、母音 O も内のイメージを持つが、これは、内で落着く、内でうごめくイメージ)。距離感はゼロ。むしろ、マイナスの距離感すらある。
N も M も、調音点はノドの奥にあるが、N が鼻音であるため、湿り気、粘り気が感じられ、ために、密着感が強く、親近感が出てくる。
一方、K は反対に乾いており、よそよそしさ、客観性が出る。
T はやはり、滞り感から、躊躇感が出、疑いに使われるようになったのであろう。
古代人は、自分のことも あ、相手も あ と呼んでいたが、これは距離感とは関係なく、存在そのものを あ で表わしていたのだろう。
この A が分化して、UA→W→WA,NA,KA,TA になったのかもしれない。
オレ はいつの時代から使われだしたことばか知らない。この O も距離感ゼロで、自分を示すのにふさわしい。
女子のことばの ウチ も 内(家も)と通じるのであろうが、UCHI の U は距離感ゼロで、内にこもる感じがあり、女子の自己表現にはピッタリなのであろう。
ちなみに、内(UCHI)、外(SOTO)、奥(OKU) などのことばも、その語感の距離感と整合している。

   H の不思議  

H音の語感は不思議である。ハ、ホ は温かい感じがするのに、ヒ は冷たい感じがする。i音がそんなに冷たいのだろうか。i音は冷たいというよりは鋭い感じが強い。柔らかな H と鋭い i が結びつくと冷たくなるのだろうか。実は、ヒ はH音ではないのだ。

H音には二重性がある。
ひとつは、日本語としては、P音(奈良時代)から F音(=PH 平安時代)を経て現在のH音になったという歴史性がる。
‘光’は‘ピカリ’であり、‘炎’は‘ポの尾’であったということで、全く語感そのものである。(‘ポ’とは、火がポッとつくイメージ)

今ひとつは、現在のH音の語感がP音、F音の語感とはかなり違うということである。
これは、P・F・H が共に摩擦音ではあるものの、P・F が両唇、H が声門と調音点が全く異なるためである。ここから、P音が外へ拡散するイメージが強いのに対し、H音は、一番奥で調音するため、温かいイメージを持つと共に、心の内側を吐露するかのイメージが加わる。
桜の花の散る‘ハラハラ’が、幼子のチャレンジを見守る親心も表わす。ハッとする、ホッとする、ホロリとする。笑い声にもH音が使われる。アッハッハッハ、エッヘッヘッヘ、・・・。これらは心情をよく表わしている。
H音は母音に近い、半母音ともいえる。
このように、H音は歴史的背景と現実の語感というやや矛盾した面を併せ持っている。
加えて、事態をもっと複雑にしているのは、発声上は現在の ヒ と フ がH音ではないことである。ハ、ヘ、ホ が声門音であるのに対し、ヒ は硬口蓋音、フ は両唇音なのである。ここから、ヒ に温かいものが冷たくなる、すなわち、冷えるというイメージが出てくるのである。ハ行を一律に論じてはいけなかったのである。(タ行、サ行にもこれはいえる、チ、ツ、シ)

   H のもう一つの 不思議  

H音にはもう一つ不思議なことがある。
ナゼ、笑い声に H が用いられるのかということである。
アッハッハ
イッヒッヒ
ウッフッフ
エッヘッヘ
オッホッホ
母音に、子音としては H のみが加わっている。
この際の H は子音、音なのだろうか。
母音を長く伸ばした息継ぎ、あるいは、区切り的なものではあるまいか。
H は唯一の声門音で、口腔内に調音点を持たない半母音的性格のものである。
撥音、促音と同じようなものではあるまいか。長音の促音かもしれない。
アーアーアー が アッアッアッ そして アッハッハ かな?

   H と B と P の三角関係  

日本語では、ハ の濁音が バ、そして半濁音が パ ということになっている。音声学的にはこれは誤りである。B音 バ の清音はP音 パ である。H音とB音では調音点が異なる。P音とB音では同じである。口の形も同じである。そして、P音は有声音ではなく、無声音である。
それではH音の濁音は何か。私は母音全体だと思う。むしろ逆に母音の清音(もと)がH音なのだと思う。

   M ・ B ・ P      初語  

[個体発生は、系統発生を繰り返す](ヘッケルの反復理論)があてはまるなら、幼児の最初に発することばを観察することによって、人類最初のことばが何であったか推測できるかもしれない。
赤ちゃんは生後まもなく泣き声とは違う喃語を発するようになる。そして、それが次第にことばらしくなってくる。ことばらしい音の最初は ゥマ とか マ 的な音である。そして、それに バ とか パ 的な音が加わる。
発声学的には、これには理由がある。赤ちゃんが、お母さんのおっぱいにしゃぶりつきながら、喜びの、あるいは、満足の声を出すとしたら、音が鼻に抜ける鼻音の マ 的な音となる。そして、それを鼻に抜かずに同じ口腔の形で発声すれば、バ になり パ になる。有声なら バ、無声なら パ である。
母音では ア 系が最も自然に出やすいが、それに息を吹き出す意識が加わると ウ 系になる。だから、マ・バ・パ に ム・ブ・プ が加わる。バブバブ とか パプー とか マンマ がこれにあたる。
母音 ア 系は一番自然に出る音。何の屈託もなくノビノビと声を出せば ア になる。それに対し、口の中をすぼめ意図的に息を出そうとすると ウ 系の音になる。母音の中では ウ が ア の対極になるのだろう。イ・オ はそれぞれ、より細工がいる。エ が一番中途半端で、赤ちゃんにとっては作為的で、むつかしいかもしれない。
自分に安心と満足(食べ物)を与えてくれるものを M 音で呼ぶ。次に身近なものを B 音 P 音で呼ぶのもごく自然の成り行きであったのだろう。ママ・マーマー・マンマ、そこから マザー・マリア・マヤ などのことばも出来てきたのだろう。パパ・パイパイ・ババ・バーヤ などもそうかもしれない。(じゃあ他の言語ではどうなのかという問題がのこる。拍単位という日本語の特殊性が効いていると思われるが、・・)
これらは仲間内での初語論だが、言語のはじまりを考えるとき、今一つの方向も考えなければならない。すなわち、警戒音、警告音、威嚇音としてのことばのはじまりである。これは別の機会に考えたい。

   五十音図 の 落とし穴  

アイウエオの五十音図は非常によく出来た日本語の発音単位の一覧表である。
五つの母音と子音との組合せのマトリックスになっており、誠に合理的である。
アイウエオ という母音の並び方も発音的に区別しやすくなっている。アナウンサーの発声訓練に、わざと似た音を並べたのが、アエイオウ である。
アカサタナ・・にしても何か法則がありそうである。
このように合理的でよく出来た五十音図ではあるが、発声学的に、語感分析をする際に注意を要する点がある。

まず、バ の清音が ハ ではなく、多分 パ であること。この問題は歴史的変遷もからんでおり別途論じた。

次に、特に注意を要するのは、同じ行の子音の調音点が必ずしも同じではないということである。
ハ行の子音は H音であるが、HI・HU はそれぞれ調音点が異なる。H は声門音であるが、HI は硬口蓋音、HU は両唇音、いわゆる FU である。
同じく、サ行では SI だけが SHI になり、タ行では、TI が CHI,TU が TSU になっている。調音点が違うのである。当然それらの濁音もその影響をうけている。
ここから、語感を論じる場合は、ハ行を一律に論じてはならず、タ行を一律に論じてはならないということになる。
ただ、ナゼ I 段と U 段にこのような調音点の移動が起こるのか、今後の研究が必要である。
ちなみに、I も U も調音点は口腔の上の方であり、子音の調音点を引っ張るのであろう。このメカニズムの解明は面白そうな研究テーマである。

   HI の 秘密  

当初、われわれは、HI を ハ行として一律に考えていた。このとき起きた問題は、H音には温かさが感じられ、HA・HO は温かいのに、HI はむしろ冷たく感じられるという矛盾であった。当時、われわれは I の鋭さが強くて H が負けてしまうのではないかとも考えたが、真相は、HI は H音ではなかったということである。
声門音は、ノドの一番奥に調音点があるため吐く息が温かく感じられるが、硬口蓋では調音点がうんと前に移動し、SH音などとも近く、冷やされるイメージが強く出てくるのである。

   SI (SHI) は不思議な音  

音のないことを音で表わす。これこそ絶対矛盾である。この矛盾をわれわれの祖先は見事突破した、SIを使って。
シーンは音のない状態を表わすおオノマトペ。シーと言えば音を出すなという指示語(?)。静ということば、そのものがSIで始まる。
英語の SILENT も SI で始まる。何か基本的なところで関係があるのかもしれない。
S は子音の中でも最も純粋、偏りがない。固くも柔らかくもない。温かくも冷たくもない。跳ねもしなければ止まりもしない。重くもなければ軽くもない。I も純粋、すっきりしている。こんなところから音のない状態に使われて違和感がないのかもしれない。
ところで、英語では SIREN ということばもある。最もやかましいものの代名詞のようなものだが、静とやかましい代表が、よく似た発音というのも不思議である。(SIRENの語源と関係があるのかもしれない)
われわれ日本人はサイレント・ナイトと救急サイレンを使い分けるとき、サイレント・ナイトでは、サイ、あるいは、サイ と ト にストレスを置くが、救急サイレンには、レン にストレスを置いて発声しているのではなかろうか。ちなみに、R の発音はにぎやかさのイメージが強い。

   音韻 からみた 点 と 線  

「点」と「線」、これらがいつ頃できたコトバ、あるいは、概念か分からない。シナから漢字と一緒に来たコトバであり概念なのだろう。元の発音がどうであったかは、私には分からないが、我々の祖先は「テン」と「セン」と聞きなしたのであろう。これに「面」を加えてローマ字表記すると、
   Ten   点
   Sen   線
   Men   面
になる。TとSとM の違いである。数学的に言うと、点と線と面は、零次、一次、二次と次元が一つずつ上がっている。T・S・M が感覚としての程度(次元)の違いを反映しているのかもしれない。ちなみに、それぞれに e をつけると、
   Te    手
   Se    瀬
   Me    芽
となる。 e は連なり、広がりを表わすのに使われるが、方面を表わす山の手の手、水の浅い広がりを表わす瀬、春の野の一斉の芽吹きの芽、Ne(根)も Ke(毛・気)も連なりの広がりである。
e の代わりに、実在感を表わす i をつけると、
   Ti    乳・血 (内容のある液体)
   Si    水   (透明な液体)
   Mi    実   (固体)
   Ki    気   (気体)
である。これらのコトバの作り方は、音のイメージ(語感)を反映している。
主なイメージ
   K: 乾いた・切れ・軽さ・薄さ
   S: さわやか・流れ・スムーズ・スッキリ
   T: 固い・小さい・止まる・止る・内容のある
   N: 粘り・柔らか・温かい
   M: 満ちた・膨張する・充実した
古代人の感性を味わってみてください。
(日本語としては、点・線・面は比較的新しく、乳・実・気などは古い概念だと思われる。)

   音 の無い 音  

音のない状態 ‘シーン’の語源は耳鳴りの音だという説がある。なるほど、ほとんど音のない山の中で、真夜中フト耳を澄ますと頭の中で音がしているように感じる。ただ、私にはこの音は‘シーン’というよりは‘ジーン’に近いように感じる。
私は、‘シーン’は 水 に関係した表現だと思う。別の項でも説明したが、古代、水 は SI であったという。屋内外を問わず、水 を配することによって、静かさ を演出することができる。実際、水 を打つことによって 静かさ をますことができる。この SI+つく から しづく、そして、静 ということばが出来たのではと思う。そして、‘静に!‘ から ’シー!‘、そして、その状態’シーン‘が出てきたのではあるまいか。

   ことば を 発しない ことば  

音の無い音 SI を発明した日本語は、ことばを発しない表現のことばも発明した。すなわち、‘ん’である。通常、‘ウン’とか‘ウーン’と書くが、実際の発声は、ウ 音ではない。完全に口をつぐんで出すので、いわゆる、完全鼻音である。これを、口を少し開けて出す ウ で表わす習わしが出来たのであろうか。
阿吽の呼吸とは、声を発する代表 ア の対極として ウン を持ってきたのであろう。本当は、ア・ン である。
’ン‘は疑問を表わすときによく使われることばであるが、nn 音ではない。完全に口をつぐんで発声するので、むしろ、mm 音である。
N と同様 M も疑問に使われることから進化して否定にも使われるようになった。 MAI などがそうである。
有・無、すなわち、有る・無し の音は、u・mu である。有る という表現に m を付けることによって、無い を表現している。
   有   u     a
   無  mu     na i
有無とは元来大陸由来の漢字である。当時、現地でなんと発音されていたのかはわからない。今の中国語の発音は、you と wu であって、u・mu とはかなり違う。多分、当時も you・wu に似た発音であったものを、我々の祖先が、彼らの感性で、u・mu と聞きなしたものと思われる。(私には、ヨォウ・ウーゥ に聞こえる。)
M・N の鼻音語が疑問ないし否定を表わしやすい傾向は、やや鼻音に近い Y 音にもみられる。 イイ に対し イイヤ、あるいは イヤ という表現である。ヤヤ? も疑いの表現である。

   ‘ん !’ は ことば か  

どこからことばか。
感嘆詞‘あっ’‘うっ’‘えっ’‘おっ’‘うん’‘うーん’‘うううん’はことばか。
実際には、文字表現の通りの発声ではなく、聞きなしがおこなわれている。(すなわち、口を開けない発声も‘うん’と書くなど)。そして、発する人の意思を相手に伝えることができるので立派なことばである。
‘はっ’とする、‘ふっ’と安堵の吐息をもらす、‘ほっ’と胸をなでおろす、これらは擬態語である。実際にこのようなことばを発するわけではない。気持ちの状態を表わしているのである。事態を客観視し、抽象度が高い。より進んだことばではあるまいか。
‘トントン’‘カンカン’の擬音語はどうか。実際の音を模したものではあるが、その音の通りではない。一種の聞きなしである。抽象化されているのである。(ちなみに、これらの実際の音とその擬態語の周波数とテンポが同じだそうである。)だから、立派なことばである。
 赤ちゃんの‘マンマ’はどうか。‘アブアブ’’バブウ’は単なる発声であるが、相手への目的性が出てくればことばであろう。条件反射的に泣くのと違って、母を求めて、おっぱいを期待して発せられているのであればことばだろう。
‘mama’’mamma‘この辺りが赤ちゃんの最初のことばといえるのではなかろうか。

   ある、いる、おる の考察  

よく似たことば、ある、いる、おる の違いについて考えてみたい。
語幹を考えるため、それぞれの反対語を考えると、ある に対し ない、いる に対し いない、おる に対しては おらない となる。これを発音表記すると、
ARU − NAI
IRU − INAI
ORU − ORANAI
となる。

ARU に対する NAI は、語幹 A に対し、語頭に N を加えることによって、否定を表わそうとしたのではあるまいか。
ARU に対し NARU、それが語尾変化して、NARI そして NAI。
N を冠して否定を表わすのは、印度ヨーロッパ祖語の影響があるのかもしれない。

IRU−IRANAI の語幹は I,そして前項の NAI を借用している。

ORU−ORANAI の語幹は ORU(ORA)である。

ここから推測できるのは、あるーない の A が最も古く、それを借用しつつ、単拍 I を使っている、いるーいない が次に現れ、最後に、二拍の おるーおらない が現れたものと思われる。

次に、語感から、ある、いる、おる の違いを、古代人になって考えてみたい。
ある、いる、おる の違いは、A,I,O の違いである。

A の語感は、もっとも自然で、屈託もなく発声されるので、もっとも原初的とも思われ、大きな、漠とした絶対的存在を表わしやすい。

I は、発声の際、意識的に唇および口腔を狭めるので、意識感、しっかり感、そして具体感がでるため、具体的実在を表わしやすい。

O は、発声の際、唇をすぼめ、口腔の奥を広くするイメージがあるため、ノドの奥に意識がいき、自分の存在、主体的存在感が表わしやすい。

発生的にも、全世界的存在があり、次に、目の前の具体物の存在があり、そして、自意識、すなわち、自己の存在を意識するようになったというのは、ありうることであろう。

I については、語感的に、小さく、細いというイメージがあるため、どうして イシ・イワ・イヌ などのことばが通用してきたのか疑問であったが、そのしっかり感、実在感に重点が置かれたとしたら、納得はできる。

残る母音 U,E については、A,I,O に次いで U 現れたのであろう。
U は A,I,O の存在感に対し、動きを表わすのに使われたのではないか。また、口腔の奥・上に意識がいくので、内向き、内面的なものを表わすのにも使われるようになったのではあるまいか。

E はもっとも新しく入ってきた母音といわれている。
E は発声的には、A と I の中間、しかも顎を少し引くようにして発声するため、曖昧さ、謙譲さがでて、また、当初舶来の外来音ということもあって、上品さを表わすのに使われたようだ。
ただ、現在は、下に平たく引くイメージから、やや下卑たイメージが強く感じられるようである。
( エッヘッヘッヘ という笑い声に、あなたはどのように感じられますか。)

   ことば の デジ・アナ論争  

ことばは本来デジタルである。これが、こと の は の意味である。(事・言 の 葉・端)
すなわち、ことばの意味(シニフィエ)はデジタルを志向する。
しかし、ことばの音(シニフィアン)はアナログである。音波は本来アナログである。

ことばの音のうち子音はデジタル的である。これは母音が連続して出せ、連続して変化させることが出来るのに対し、連続して出せないからである。
これを比喩的に表現すると、アナログ的母音は 線、デジタル的子音は 点 である。
それぞれ一次元上げて、母音を 立体、すなわち、中身、子音を 面、すなわち、包装と考えることもできる。
同じデジタルな子音の中にも、シャープな 点 とややあいまいな、にじんだ 点 がある。すなわち、ややアナログ的デジタルがある。
同じく、アナログ的母音の中にも、よりシャープな、すなわち、デジタル的アナログなものがある。これらを図示すると下記の通りである。

日本語は拍で構成されている。すなわち、子音+母音 である。点 に 線 がくっ付けば 線 になる。すなわち、拍はすべてアナログである。日本語はアナログ言語である。
アナログは情緒を表わしやすく、デジタルは、その本来の性格から、概念(知)を表わしやすい。
したがって、デジ・アナ度は 情緒 と 知 のバランスを表わすことができる。
ことばそのものは当然アナログであるが、それを構成する音素のデジタル度が高ければ高いほど概念的となり、低ければ情緒的となるからである。

アナログ度・高                                    低

      A E O U I
                 W・Y H  N・M Z B D G R S P T K

デジタル度・低                                    高

 

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