語感による科学的名づけ

語感入門

    ⇒  語感言語学 語感 とは  

   驚きの声。笑い声  

先日、某テレビ局の取材があった。驚いた時、人はどのような声を出すか、との質問である。
実は、驚きの声には気持がそのまま現れるのである。唸り声、叫び声、悲鳴は声というよりは情動反応そのものであるが、驚きもそれに近い。ただ、その場その場で使い分けるので声と言ってもいいのだろう。
笑い声も情動反応ではあるが、意図的な使い分けがもっと加わる。チンパンジーの研究によると、チンパンジーの子どもも子ども同士で遊んでいるときに声を出して笑うのだが、大人が傍にいるとより多く声を出して笑うのだそうである。大人たちに自分たちが楽しく遊んでいることを知らせるためのようである。
驚きの声に気持がよく現れるということは、驚きの声が言音感そのものだということである。
基本的に気持の違いを表せるのは5つの母音である。この5つの母音ごとに驚きの声がある。

○‘アッ’。オープンで明るく、もっとも自然な驚きの声である。
○ 自分の意思を表す驚きの声はないが、/i/ から /a/ への変化、すなわち‘ヤ’によって、訝りのニュアンスを持った‘ヤヤヤッ’という表現もある。ときに若い女の子が否定的ニュアンスをこめて、‘イヤ、イヤ、イヤ’、‘ヤダー’と言うこともある。
○‘ウッ’は詰った感じで、絶句的驚きである。この詰った /u/ が /a/ へと破裂して広がると‘ウワー’となり、爆発的驚きの表現となる。/a/ の明るさ、軽さゆえに喜びのニュアンスも感じられる。
○‘エッ’。引き気味の感じから、不本意な意外性が感じられる。意外性を強調すると‘エエッ’になり、疑い感を強くすると‘エーッ’となる。
○‘オッ’は心の中での動き、すなわち感動である。自分の心の中での動きであるから、納得感も感じられる。‘オオッ’、‘オー、オー’、‘オッオッオッ’などの表現がある。これに疑念が続くと‘オヤッ’になる。ただ、‘イヤ’が否定的であるのに対し、‘オヤ’は肯定的である。

驚きの声に次いで笑い声にも言音感は直接出てくる。
○‘アッハッハ’は、おおらかで明るい笑い声。もっとも自然な笑い声である。/u/ と一旦詰って /a/ と爆発すると‘ワッハッハ’と大笑いとなる。
○‘イッヒッヒ’。少し隠微な笑い声である。/i/ の持つ意欲の欲が強く感じられるためだろう。
○‘ウッフッフ’。含み笑い。
○‘エッヘッヘ’。へつらった笑いである。
○‘オッホッホ’。乙に澄ました、お上品な笑いである。
しかし、実際はこのように字に書いたように笑うわけではない。中間の入り混じった声である。そして、それらの実際の笑い声は上記の典型的な笑い声の語音感の混じり合ったニュアンスを伝えているのである。
英語にはこのような日本語の驚きの声、笑い声に対応する言葉はない。しかし、実際は欧米人だって声を出して驚きもするし、笑いもするだろう。その驚き方も笑い方もいろいろとヴァリエイションあるだろう。ただ、文字としての表現法が少ないのである。これは自然を写し取ろうとするオノマトペが発達していないことに加え、情に対する評価が低いためであると思われる。文化の大きな違いである。
    (平成27年2月28日)

   語感入門  

語感 入門  

 あなた自身が語感を感じ分けることがもっとも重要です。
本サイトの分析例、語感対決などをよく見てください。名前を声に出しながら、グラフやイメージ語を眺めてください。いろいろ見比べているうちに、だんだん分かってくると思います。

語感解説 初歩  

  母 音  

 自然発声音で、のばし、変化させることの出来るアナログ音。
 私は、母音はグルーミング(毛づくろい)としての言葉、仲間同士仲良くしようとして生まれた言葉だと思います。気持ちを伝えるのに適しています。母音は連続変化が可能で、例えば、アーエーイーウーオ と連続して発声でき、境目があいまいです。母音はあいまいな音で、概念化、割り切りには適していません。ちなみに、気持ちというものはあいまいさのあるもので、言葉では表現しきれないのではないでしょうか。

 ア→エ→イ→ウ→オ→ア と連続して発声が可能です。

 この変化を体感してみてください。口の中で音を作る場所(調音点)が、上へ少し上がり、さらに上へ、奥へ入り、下へ下がり、又、前に出る。
 同時に口の開け方も変わります。口を大きく開ければ開放的な感じもする、前向きの感じもする、明るい感じもします(ア)。
 唇を狭め、強く息を出すようにすると、前向きの意思を感じます。同時に、小さい、鋭い、冷たい感じも混じっています(イ)。
 唇をつぼめて、口の中を大きくして、奥の下の方で発声すると、こもった、重たい、大きな感じとともに、暗い、落着いた感じもします(オ)。
 (ウ)は奥の上で調音しますので、内向きの感じもあるし、上への動きも感じられます。
 (エ)は少しあごを引くようにして発声するので、ややひかえめな、下に平らな感じがします。(そのためか、下品に感じる人も多くいます)。

アッハッハッハ (AッHAッHAッHA)
イッヒッヒッヒ  (IッHIッHIッHI)
ウッフッフッフ  (UッHUッHUッHU)
エッヘッヘッヘ (EッHEッHEッHE)
オッホッホッホ (OッHOッHOッHO)

上の五つは母音が違うだけです。時代劇の場面で想定すると、

「天下泰平、わが世の春」
「嫁をいびって、いじわるをする鬼ババア」
「賂を懐にした悪代官」
「悪代官にとりいる悪徳商人」
「オツにすました奥方」

が対応するのではないでしょうか。随分違いますね。

「カーン」
「キーン」
「コーン」

どの打球が空高くあがり、どの打球が三遊間を破る鋭い当たりか、分かりますよね。母音が違うだけです。これが母音の違いです。

  子 音  

 これに対し子音は、無理に作る音で連続しては発声できません。のばすときは母音をつけてその母音をのばすしかありません。(デジタル)
 子音の発生は、警戒音や威嚇音だったのでしょう。作為的に作る切れのあるデジタル音ですので、概念化には適しています。言語は、人と人との関係が厳しくなり、権利主張が重要になるにしたがい、子音の重要度をましながら、発達してきたのでしょう。

  拍  

 日本語では、子音+母音で拍を作ります(子音のない場合もあります)。この拍がことばの構成単位です。欧米語の場合は、いわゆるシラブルが構成単位です。シラブルも子音と母音の組合せですが、子音1に母音1というような規則性はありません。長いシラブルもあれば短いシラブルもあります。子音と子音が連続することもあります。子音で終わることもあります。

 日本語は 母音5×子音9 の規則的な組合せです。他に、拗音、濁音、撥音、促音などがありますが、これらにも規則性があります。日本語の拍の数は約135.これに対し英語のシラブルの数は3000ともいわれています。

 左脳が言語脳であることを十分承知の上で、あえて比喩的にいうと、母音は右脳的、子音は左脳的です。拍はこの右脳的なものと左脳的なものの組合せになっています。いいかえれば、情緒的なものと論理的なものとの組合せです。

 現代社会では、ことばは論理を追求する手段として使われてきました。そして、より正確な概念を伝える必要から余分なものが極力切り落とされていきました。これが、欧米語が母音を捨てていった原因かもしれません(あるいは、結果かもしれません)。一方、日本語には母音が温存されました。これが、日本語が論理的でないといわれる所以かもしれません。しかし、バランスのとれた人間的言語ともいえます。

 ちなみに、英語の中にも母音だけのことばも残っています。 I,WE,YOU、ARE です。YOU も Y音が半母音(二重母音)ですので、母音と考えていいでしょう。いかな合理主義の英米でも、I 、WE と YOU だけは情緒的、分かる気がしませんか。また、MY,ME、AM の M音も子音の中では N と並んで情緒的です。(鼻音ですから)。W音も半母音ですので、OUR,WERE もそうですね。 

 子音はデジタルで無機質なもの、素材感のようなものを表わすのに適しています。母音はアナログで気持的なもの、自分と相手との立ち位置のようなものを表わすのに適しています。したがって、拍では、素材的なあるものが、気分的にある状態にあることを表現します。
 例えば、KA は K 的なもの、固い、乾いた、鋭い、小さい的なものが、A 的な状態、すなわち、明るく、開けて、のびのびした、前向きの状態にあることを表現します。MO となれば、満ち溢れて、温かく、少し湿り気があって、少し柔らかいものが、内にこもって、重く、大きい状態を表現しています。

 ことばはこの拍を二つ三つとつないで作られています。日本語では、初期のことばは単拍、そして、より複雑なものを表わすために拍と拍をつないで2拍、そして3拍、4拍となっていったのでしょう。拍と拍とをつないでことばを作ったように、ことばとことばをつないで新しいことばも作られるようになったのでしょう。

 最初はことばも名詞、動詞、形容詞などの区別はなかったのでしょうが、語尾を変化させたりしながら、名詞的なもの、動詞的なものへと分化していったのでしょう。原初のことばは、〜的なものでしたので、歯も葉も表わしたし、花も鼻も、実も身も耳(ミが二つ)も、目も芽も、穂も頬も、といった感じだったのでしょうか。

 ことばは、〜的なものが〜的状態にあるという拍のつながりですから、ことばの語感は、原則的には、このつながりを物語的に読めば(感じれば)いいのですが、日本語には、最初の拍の印象が強いとか、語尾の母音の印象も強いとかの癖があります。こういう色々な癖を勘案しながら読めばより正確なイメージが掴めますが、ただ単に流れ通りに読んでもそこそこのイメージは掴めます。

「語呂合わせだ」 との批判について  

 ‘S’ の語感は さわやか、すっきり、スムース などというと語呂合わせだという人がいます。’K’ の語感についても、固い、乾いた、切れがある、などというと尚更です。

 しかし、これは全くの誤解です。日本語が語感をすなおに表わしているものが多いために起こったことなのです( 結果です。原因ではありません)。語感がある程度わかる人は成程と思ってくれるのですが、語感がすっかり錆び付いている人にとっては語呂合わせに見えてしまうのです。

 ‘スムース’ は日本語じゃないという人もいるでしょうが、語感がピッタリのことばは、我々日本人は日本語として取り入れてしまうのです。ですから、外国語由来のことばで我々の日常語に溶け込んでいることばは語感にピッタリです。クール、クリーン、ドライ、フェアー ・・・

 ‘モンブラン’ というのは、もともとフランス語で ’白い山’ という意味ですが、あまり白くもない栗のボリューム感のあるケーキに語感がピッタリなため誰かが名付けたのでしょう。ケーキのモンブランはフランス語ではなく日本語といった方がいいのかもしれません。

 漢字について、音読みは外来語ではないかとの疑念もありますが、これは、呉、漢、唐の現地での発音をそのまま取り入れたのではなく、当時の日本人が彼らの耳で聞き取ったものを彼らなりに復元したもので、基本的には日本語的発音です。したがって、語感にそっているものも多く、’厳格’ などはピッタリです。しかし、’美人’ などは日本的感性ではあまり美しくも感じられません。

 ‘キン’、’ギン’ は音読みですが、当時現地でどのように発音されていたのか分かりませんが、現代中国語では、(/jin/と/yin/で) どちらが金でどちらが銀か我々には分かりません。しかし、キンキンキラキラの ’金’ と、いぶし銀の ‘銀’ の日本語の発音は非常にそのもののイメージをよく捉えています。漢字を取り入れた際の先人の卓越したセンスがうかがえます。

 語感の裏切り     陶器と磁器  

 一つの茶碗を前にして、それが[トーキ]か[ジキ]か、問われたとき、一瞬戸惑われたことはありませんか。[陶器]か[磁器]か、と字で示されると迷うことはないのにです。これは[トーキ]と[ジキ]の語感が実体と矛盾しているからです。

 [陶器]は、低火度で焼くため、焼き締りが弱く、不透明、多孔質でやや吸水性がある、これに対し、[磁器]は、高温で焼くため、表面がガラス化し、半透明で、吸水性は全くなく金属的という特徴があり、[陶器]は[磁器]に比べ、やわらかく、温かな印象があります。
 ところが、[トーキ]の[To]という音は、[磁器]の[Ji]という音に比較して、より硬く、より冷たいイメージを持っています。
 このことから、音だけを聞いたとき一瞬戸惑うことがあるのではないかと思われます。戸惑った後、字を思い浮かべて、やっと硬く冷たい方が[磁器]だと判断できるわけです。

比較的新しい外来語の場合このようなことが起こりうるのです。

 語感の持つイメージとそのもののイメージが違う例として陶器・磁器を挙げたところ異論がでた。  

 そこで、その方の受け止め方を聞いたところ、陶器は分厚く、磁器は薄いイメージだという。
なるほど、To には Ji よりも豊かな感じがあるし、Ji には薄い感じもある。これは母音の違いで i は鋭く細く、o は大きく重い。

 私は、陶器と磁器の違いを表面の手触り感で捉えていた。
 陶器はザラザラ感があり温か、磁器は滑らかで冷たい。
 T は固く透明感があり、J には濁りと潤いがある。したがって、語感と実物が逆だと感じていたのである。 

 物をどのようなイメージで捉えるのかの違いもあるが、私は語感を子音で捉え、その方は母音を主に感じていたことになる。

 一つの拍の語感を、母音を中心に感じる右脳人間、すなはち、アナログ人間と、子音を強く感じる左脳人間、すなはち、デジタル人間とがいるのだろうか。
 もっとも、陶 を Jo,磁 を Ti と子音を入れ替えて読むことにしておれば完璧であったのだが。 (平成21年4月6日)

   漢字の語感  

 我々の祖先は、漢字を受け入れるとき、その発音を呉音、唐音などそのまま受け入れたのではなく、日本語の発音にして受け入れた。
 その結果、金・銀(キン・ギン)などは音読みにもかかわらず、語感的にそれぞれの特徴を表わしており、ピッタリである。

 しかし、陶器・磁器の対比は、語感的にはしっくりこない。これは当時の人々の語感が鈍かったためではなく、陶・磁の字が、陶器・磁器のセットとして入ってきたのではなく、それぞれ別個に入ってきたためと思われる。
 Tou の音は硬く焼き上げるイメージと矛盾しない。
 Ji も磁石的イメージであればおかしくはない。
 陶は焼き物全体を表す言葉として、磁は何か内容のあるものをもったものを表す言葉として入ってきたのだろう。

    犬 と 猫  

犬と猫は、ともに広く家庭で飼われている愛玩動物であるが、幼児と話すときは、犬は イヌ と呼ぶよりは、ワンワン とか ワンちゃん と呼ぶ。
そして猫を指すときは、ネコ とか ネコちゃん という。
これはナゼか。
多分、語感的に ネコ は猫らしいが、イヌ の音の語感が、犬のイメージと結びつきにくいからではないだろうか。
犬がなぜ イヌ と呼ばれるようになったかはよく分からない。
同じく、馬と牛も、馬は オウマ、ウマ と呼ぶが、牛は モーモー とか モーモーちゃん と呼ぶことが多い。
やはり、ウマ は語感が合っているが、ウシ は合っていないからだろう。ベコ と呼べば、また違っていたかもしれない。
日本語の中にも、語感のよく合っていることばと、いまいちのことばがあるようだ。いまいちのことばは、語感とは直接結びつかない起源があるのだろうか。

 子 音 の語感がよく生かされている ことば の例  

○ K行  固い、乾いた、切れ、クール、カット、カラッと
○ S行  スムース、すっきり、さっぱり、さわやか、清水
○ T行  溜まる、届く、止まる、タッチ、たんと、タップリ
  CHI  小さい、チョット、チビッコ
○ N行  のろのろ、ねばねば、錬る、のんき
○ H行  はかない、ほんわか、ホット、
   HI   冷える、ひしひし (音韻的には、HI はH行ではありません)
○ M行  丸、満月、満ちる、ママ、マザー、マンマ、モンブラン
○ Y行  やさしい、柔らか、柳
○ R行  蘭、乱、ばら、凛とした
○ W行  湧く、童
○ G行  ガンコ、厳格、ごんた
○ Z行  雑、ザラザラ、ぞろぞろ、ざらめ
○ D行  鈍重、泥、ドン
○ P行  ピカリ、ピチピチ、ぱっくり
○ B行  ボイン、ボリューム、ぼける、牡丹

この他、オノマトペは原則的に語感とよく合っています。

 母 音 の語感がよく生かされている ことば  の例  

○ ア 明るい、開ける、淡い、温かい    朝、赤、暑い、浅い、天(あま)
○ イ イヤ、イイ、意、行く          息、命、生きる、意欲
○ ウ 内、動く、上、浮く            呻る、呻く、移る、失せる
○ エ 遠慮、へつらい、へりくだり      枝、縁(えん、えにし)
○ オ 重い、大きい、奥            落ちる、置く

 エ は日本語母音の中では、比較的遅く出てきたため、また、ア と イ の中間的存在であるため、典型的な原語が少ない。ただ、子音と結びついて、つながっているものを表わすのに多く使われている。(また、現在の H は子音というよりは母音に近い。)
          根、手、毛、芽、瀬

 ちなみに、イ は子音と結びついて、確かな実在 を表わすのに多く使われている。
     KI=気、SI=水、TI=血・乳、PI=火、MI=身・実
 なお、木は KE であった。 PI は後に HI に変化した。 SI=水 は中西進説。

こじつけの何が悪い  

終助詞‘ね’は‘おNeがい’、‘おNeだり’、‘Neんおし’の‘Ne’だとか、助動詞‘だ’は‘Daんてー(断定)’‘Daんげん(断言)’の‘Da’だ、などというと、‘こじつけ’だとの非難をよく受ける。
しかし、そもそも、‘こじつけ’は良くないことなのだろうか。

‘こじつけ’とはどういう意味か。
辞書には、‘無理に理屈をつける’とあるが、‘故事つけ’とか‘古事つけ’だと、こじつけることもある。
‘こじつけ’の‘こじ’が‘こじあける’の‘こじ’などを連想させて、強引なイメージがでるのだろう。
ところで、もともと言葉とは、‘もの’、‘こと’と‘声という音’とを強引に結びつけたものではないのか。
‘もの’、‘こと’と‘音’とは全く性質の異なるものである。二つの間の何らかの共通性を探り出し、結びつけたものであって、そこに、無理があり、強引さが伴うのは当然のことではなかろうか。
この共通性を発音時の体感に求めたのも自然な成り行きだったのではないか。
人類の言葉の始まりは、広い意味での、発音体感からであろう。(すなわち、‘語感’からである。)
ということは、すなわち、言葉そのものが‘こじつけ’だということである。

呼びかけ言葉の‘ねーねー’や助詞‘ね’に‘お願い’‘おねだり’‘念押し’のニュアンスがあるのは事実である。
では、なぜ、そうなのか。
‘こじつけ’だという言いがかりは、たまたまそうであるという考え方からきているのであろうが、これは、たまたまではないのである。理由があるのである。
すなわち、‘ね’の‘語感’に‘お願い’‘おねだり’‘念押し’のイメージがあるのである。
‘ね’という言葉があって、その音のイメージを使って、‘お願い’‘おねだり’‘念押し’などの言葉が生まれたのであろう。(イメージが合うからそのような意味合いが付いた、ともいえる。)

‘Ne’の発音体感には、‘N’が鼻音であることから、やさしい、粘り気、うちうちの仲間感のようなものがある、そこから‘お願い’‘おねだり’‘念押し’に使われたのだろう。
‘Da’には、さわやか、オープンなイメージの‘a’に、止まる、溜まるイメージの‘T’を濁音化して強めた‘D’を付けて、きっぱりとした言い切りのイメージがよく出ている。
(‘断定’の漢語としての本来の意味は‘判断して決める’ということで、キッパリと、という意味合いは薄い。また、‘断言’という漢語はない。)
すなわち、‘〜 だ’は‘断定、断言’の‘だ’だというのは、‘こじつけ’ではなく、‘だ’、‘断定’、‘断言’、それぞれの言葉そのものが‘語感’を使っての‘こじつけ’で出来ているのである。

日本語の表現には比喩的なものが多い。これらの比喩も一種の‘こじつけ’である。
  気が重い
気に重量があるのか。取り出して計れるのか。これは、気をものに例えた表現である。
  腹が減った
腹そのものが減少したのか。腹を容器に例え、その中身が減少した例えである。かなり強引である。
英語には、これらのことを表わす専用の言葉がある。日本語は、少ない言葉を組み合わせて比喩的に表現しようとする。そこにはやや飛躍が生じる。そして、この飛躍を理解し合う文化が育つ。また、飛躍の多用が新たな比喩的表現を生み出す。
  心が重い、頭が重い、そして、足が重い
‘重い足を引きずって’という表現があるが、足そのものが重いのではなく、行きたくないという気持ちの表現なのである。
  腹がいっぱい、腹八分目、そして、胸がいっぱい
胸までをも容器に例えているのである。
日本語では、‘語感’をベースにした言葉作りが、これが‘こじつけ’であるが故に、比喩的表現を豊富にしたのかもしれない。
比喩的表現は、聞く方にも理解される必要があるので、その言葉を使う人すべてにある一定の理解能力が要求される。
日本人は、潜在意識においてではあるにせよ、言葉に常に‘語感’を感じているので、これらの飛躍には慣れているのかもしれない。(むしろ、飛躍を楽しんでいるのである。)

ものごとを直裁には表現せず、間接的に表現する日本語の特徴も、この辺りから来ているのかもしれない。
‘有難う’、‘ただいま’、‘さよなら’、‘どうも、どうも’、‘じゃぁねー’
これらは、英語に直訳しては意味をなさない。
( 有難う=impossible to be
  ただいま=just now
  さよなら=well then かな? ‘どうも、じゃぁねー’ は直訳もできない。)
      (平成22年11月24日)

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